2011年 7月 12日
石垣・与那国へ視察研修報告 その2
また、中山市長は、
尖閣諸島の歴史についても 話して下さいました。
石垣市において、消して忘れてはならないこと。
それは、戦時中、尖閣諸島付近で起きた
遭難事件についてでした。
昭和20年6月30日、
台湾疎開中の石垣町民180人が 米軍機の機銃を受け、
2隻のうち1隻は炎上、もう一隻は大破。
海に投げ出されてた大多数は 魚釣島に辿り着いたものの、
多くの者が餓死や病死し、生還者はわずか50人余りでした。
このような歴史的背景をふまえ、
復帰前の昭和44年、当時の 石垣喜興市長が 魚釣島に上陸し、
尖閣遭難者の慰霊祭を行いました。
しかし その直後の昭和45年、
中国が領有権を主張してきたため 、
尖閣諸島へは 自由に上陸する事が出来なくなりました。
そして今日に至るまで、現地での慰霊祭は実施されていません。
(今は石垣市新川にて、毎年 慰霊祭を実施しています。)
石垣島民にとって 尖閣諸島は、
生活を支える漁場であるだけでなく、
祖先の魂が眠る 特別な場所でもあるのです。
今、北方領土墓参は、
北海道が実施主体となって実施されています。
尖閣諸島においても 北方領土同様、
遺族の心情を 酌みとり、
現地での 慰霊祭が出来るようにするべきです。
そのためにも 政府は、
石垣市長の尖閣諸島上陸を許可すべきです!
尖閣諸島の歴史についても 話して下さいました。
石垣市において、消して忘れてはならないこと。
それは、戦時中、尖閣諸島付近で起きた
遭難事件についてでした。
昭和20年6月30日、
台湾疎開中の石垣町民180人が 米軍機の機銃を受け、
2隻のうち1隻は炎上、もう一隻は大破。
海に投げ出されてた大多数は 魚釣島に辿り着いたものの、
多くの者が餓死や病死し、生還者はわずか50人余りでした。
このような歴史的背景をふまえ、
復帰前の昭和44年、当時の 石垣喜興市長が 魚釣島に上陸し、
尖閣遭難者の慰霊祭を行いました。
しかし その直後の昭和45年、
中国が領有権を主張してきたため 、
尖閣諸島へは 自由に上陸する事が出来なくなりました。
そして今日に至るまで、現地での慰霊祭は実施されていません。
(今は石垣市新川にて、毎年 慰霊祭を実施しています。)
石垣島民にとって 尖閣諸島は、
生活を支える漁場であるだけでなく、
祖先の魂が眠る 特別な場所でもあるのです。
今、北方領土墓参は、
北海道が実施主体となって実施されています。
尖閣諸島においても 北方領土同様、
遺族の心情を 酌みとり、
現地での 慰霊祭が出来るようにするべきです。
そのためにも 政府は、
石垣市長の尖閣諸島上陸を許可すべきです!